長野家庭裁判所上田支部 昭和29年(家)719号 審判 1954年12月06日
申立人 木村政治(仮名)
明治二六年○○月○○日生
申立人 木村美子(仮名)
大正○年○月○○日生
申立人 木村一郎(仮名)
明治四一年○○月○○日生
申立人 木村久子(仮名)
大正○年○月○○日生
主文
本件申立を却下する。
理由
申立人等は申立の実情として、申立人等は生来木村の氏を襲用してきたが、父一道が昭和十八年○月○○日死亡に際し「津村」と称したいと思つた。というのは申立人等所蔵の家系図、宗門帳或は墓石等を遡つて調べて見ると明かに申立人等の氏が津村であることが判つたので前記一道の埋葬に当つて祖先伝来の居村○○寺山内の津村家の墓地にしようとしたところ、これに対し父一道の妹津村よしが暴力で拒否し一時葬儀が中絶の状態となつたが、申立人等に力添えしてくれた人々によつて強行に「津村家」の墓地に埋葬してことなきを得た。元来津村よしは祖父政利の兄津村太郎が幼少で死亡し、後世絶家再興ということで津村氏を称したに過ぎない。故に政利が先祖の墓地の手入れ祭礼も行い、父一道はその長子でなかつたが、他の長子達は他出又は早世したためにこれを承継し、申立人等に及んでいるものである。以上の次第であるから申立人等が木村氏を称するため津村よしとの間にことある毎にこの種事件が起ることを憂うるとともに家事重要人事をも侵されることは疑いないところである。申立人等はこの障害を将来子孫に残さないようにすることが責務と感じたので申立人等の氏「木村」を「津村」に変更許可の審判を求めるというのである。
思うに人の氏はその人の生涯を通じその人を特定して他の人との異同を弁じ前後の同一性を明らかにするためのものであるから、一旦定まつた氏名は濫りにその変更を許されない。殊に氏は夫婦、親子共同体を表わすものとしてこれを祖先に承け子孫に伝えるものであるから、その変更は軽々に許されない。戸籍法第一〇七条第一項において氏の変更についてはやむを得ない事由のある場合に限る旨を規定しているのもこれがためである。ここにやむを得ない事由とは著しく珍奇なもの、甚だしく難解難読のもの、外国人に紛わしいもの、その他その氏の継続を強制することが社会観念上甚だしく不当と認められるような場合であつて、申立人等がその実情として述べる事由は未だ氏の変更について謂ゆるやむを得ない事由ということができない。尤も津村政一、同政明、同政次、同政二の各墓石銘、家系書、宗旨御改帳、木村政利の除籍謄本、津村よし、同吾一の各戸籍謄本、証人村田正、津村よし(第一、二回)の各陳述を綜合すると
(一) 津村の氏は徳川時代○○郡○○○村における庄屋として名望あつたこと
(二) 津村政次の二男一明は文政○年(一八〇〇年)木村左門の夫婦養子となり、爾来その子一虎、その二男政利、その四男一道、その長男政治(申立人)及び二男一郎(申立人)が木村氏を継いで来たこと
(三) 木村政治の長女よしはその祖父木村一虎の長男太郎、前記政治の二男次郎が順次入籍した津村右工門(分家)の絶家を明治三十二年○月○日再興したこと
(四) 津村政次の長男政二には長子太吉があつたが、財政よろしきを得なかつたため事実上前記木村一明、更にその子一虎が津村氏を名乗ることなく前記○○○村の庄屋を執つていたこと
(五) 享保年間(一〇〇五年頃)以来申立人等の居村○○寺が津村政一、同政明、同政次、同政二、同太吉、木村政利、同吉郎、同一道等の墓所となつていること
(六) 津村氏を絶家再興した申立人等の伯父吾一は昭和十五年○月○○日相続するものなくして関東洲で死亡したことが認められる。従つて申立人等の先祖である一明は津村政次の二男として血族関係があつたが、木村左門の養子となつたため木村氏となり、爾来申立人等に至るまで一三七年の永きに亘つて木村氏を称して来たものというべく、申立人等が述べるように現に先祖の家系図、宗門帳等を所蔵しており、その祖父政治以来先祖の墓地の手入れ祭祀を引継いで行い申立人等に及んでいるとすれば、その祖先の祭祀の主宰者となり得る筈である。これを要するに本件申立は本来夫婦、親子の団体名であるべき氏が旧法上の家名にとらわれ恰も絶家再興と似た様な結果を求めようとするものなることがうかがわれ、戸籍法第一〇七条第一項にいわゆるやむを得ない事由があるものとは認められないから、本件申立は却下すべきである。
よつて主文の通り審判する。
(家事審判官 山口昇)